宣戦布告 〜拗らせ弱者のためのDirt-Bag入門〜

未曾有の脅威が、価値観そのものを揺るがしにきている。彼らは夥しい数と勢いで、我々の崇高なオリジナリティーを蹂躙し、縋り付いてきたあるかなきかの自尊心や、自己肯定意識すらもぶっ壊そうとしている。ひたぶるに看過してきていたが、そろそろ声を上げねばなるまい。

SNSと言う悪霊である。

正しくはクライミングや登山で得られる圧倒的な自然体験と自己への内省を、浅ましい卑しさで軽々と蔑ろにする生きながらの死人たち、でありSNSというのは概念的な墓標に過ぎない。無論、我々はそんなことでは絶対に満足しないし、ましてそれのために登山やクライミングをしているわけではない。

我々が人生をリソースに追い求めているものはもっともっと高潔であり、純然たる行為として尊ばれて然るべきである。

それでも奴らは気付けばクライミングコミュニティーの奥深くまで侵入し、我々の一番核となるべき思想や価値観を揺るがしにきている。これは私がプレイヤーとしても、そして文化の担い手としての気概を持った立場としても、断じて評価できるものではない。断言する。彼らは優れて醜悪(私は人として最低)である。我々は武器を取ってこれに抵抗せねばなるまい。

私はこの脅威に対して、戦闘を開始する意思をここに宣言する。

2025年5月18日 京都駅前のタリーズにて

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日本一思慮深いクライマーであり、Z世代最強の思想家にっしーによる、読むだけでイカしたクライマーになれるシリーズ(化するとは言ってない)。

クライミング界の吉本隆明やぁ〜

みんな一度は悩んだであろうクライミングや登山(スキーとかいろいろ)のコンテンツ化と、特にSNSとの関係についてです。これだけでピンと来なかった人、もう少し耐えてみてください。


クライミング界に限らず人は、人気や注目を集める行為に対して(嫉妬して)、その承認欲求の強さを批判することがありますが、それは非常に短絡的です。”人気を集める行為”への批評を行うにあたって、承認欲求はその行為の源泉であるため、「承認欲求強過ぎだろ!」って誰かが言っても、「そうだぜキラーン」で議論もクソもありません。ただ同じ切り口からモノを言ってもそれはただの悪口か妬み程度のものにしかならず、貴方のようにアホを丸出して終わるのです。

ただ露悪的なだけやつは我らの敵よりはるかに醜いと思ってください。我々が力を合わせて立ち向かわなければならないそれは、単に想像するよりもはるかに強大です。さながらドン・キホーテの前に立ちはだかった風車であります。

分かりやすくいうと2019年のM-1でミルクボーイに勝とうとするようなもんです。中途半端にバズらせ方だけ知ってしまった醜いおっさんと、テイカー気質の賞味期限腐女子が漫才してると思ってください。あれれ口が勝手に。 チョメよチョメ。

そんな敵に承認欲求という切り口で攻めてみても、彼らはそのエネルギーを吸収し、ゲームのラスボスのようにより強大に成長するだけです。自覚があるって?お前のことを言ってるんだよ。

それに立ち向かうためには我々は、深い思慮と周到な準備を必要とします。

まずは私たちが醜悪な、おっと危ない、煌びやかな人気者に感じる違和感というものの正体を探っていきましょう。それは必ずしも、羨望や嫉妬というだけのことでは無いはずです。

今日も気張っていきましょう

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クライマーがSNSに対して持つ危機感は、その多くがコト消費社会における自身の体験の質の喪失や低下によって引き起こされていると考えていますが、ここではもう少し原理主義的な話をしてみましょう。

クライミング界において、誰も口にしないけどなんかダサいと思われている共通認識みたいなものがいくつかあると思います。SNSを使ってないクライマーがかっこいいだとか、グレードよりスタイルを追い求めている方がかっこいいだとかいうアレです。感じるのは仕方ないですし勝手ですが、それを殊更に口に出したり態度で示したりする奴は僕は大嫌いです。でもここに挙げたような内容は僕も非常に共感できるものがあります。それは何故でしょうか。

それは、それをダサい/ダサくないという基準で見れるほどクライミングに対する解像度が高い時点で、クライミングが持つある種の反社会的な側面を否定できないからだと言えます。詳しく考えていきましょう。

踊りなさい。それが唯一の解決策。

始まりがどうであれ、ある時点でクライミングというのはヒッピーカルチャーの最右翼とも言えるものであり、”フリークライミング”というのも、オーバーグラウンドに対する抗いの叫びといえます。ここでいう”FREE”というのは「自由」という意味ではないと思っています。ここは長くなりそうなので割愛。

もちろん今はクライミングはオリンピック種目にまでなり、urbanでcityな雰囲気に身を包んだ華麗な男女も、健康やシェイプアップのため、はたまた仕事外で打ち込める趣味として、手軽に始められるまでになったのです。もちろんそんな人たちはクライミングの反社会性なんて知る由もないですし、歴史や成り立ちなんてこれっぽっちも興味がありません。

ここではそれを、クライミングコミュニティの「拡がり」と定義します。

ところがこんなドブみたいなブログをわざわざ読みにきている変わり者の読者の皆様は、多分そんな人たちではないでしょう。おそらくはそういったクライミングの歴史や文化的側面、そして偉大な先人が残した足跡に興味があったり、敬意があるのかもしれません。それは勿論、何も悪いことはなく、非常に素敵な感情だと思います。ただ、その「反社会性」や、「カウンターカルチャーという側面」という、心の底からかっこいいと思っているもの、と、「拡がり」によってもたらされたSNSのいいね数やグレードなどといった社会的通念によって確立された客観的価値観、というものの、乖離に対する違和感なのです。

↑これが結論です。ここからは少し長くなります。みんなバイバイ

文句を言う奴は俺みたいにつまらない思想を6000字以上も垂れ流してから言うことだな。説得力のかけらもないぜ。

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ここで、私が述べた「客観的価値観」についてもう少し詳しく説明しようと思います。

世の中のプラスマイナスがあることは全て競技化することが出来ます。

レース、早食い、受験、ビジネス、人生、クライミングのグレード…

レースはわかりやすくていい。動く手段があると、早いか遅いかという<客観的な価値判断基準>が生まれて全て競技になります。100m走、自転車ロードレース、motoGP、F1、競泳、競馬、競艇、エアレース、スピードスケート、ボブスレー、アルペンスキー、sikmo、トレラン、スピードクライミング、、、

これらのレースにおける<客観的価値>はタイムです。結果はタイムに司られており、競技者としてレースに参加する以上、誰もそれに抗うことはできません。ウサイン・ボルトだろうが、ミハエル・シューマッハだろうが、マルク・マルケスだろうが、マイケル・フェルプスだろうが、マルセル・ヒルシャーだろうが、タディ・ポガチャル(a.k.a.神)だろうが、みんなそのタイムという価値観の奴隷でしかない

そして面白いのは、例えばタイムなどの<価値基準>というのは自然的で絶対的であるのに、その評価は<社会>に依存しているという点です。

詳しく説明します。1秒という時間の区切りは人間が勝手に設定したわけですが、9.58秒という時間の長さは、何かの基準によらない絶対的な量です。ボルトは100mという距離(長さの量)を、この時間の量で走り切ったから、社会的にあれだけ絶大的な<評価>を受けているわけです。ところが、彼が縛られてきたタイムという<価値基準>は上述のように絶対的であることに対して、その<社会的評価>の本質は、9.58秒という人類史上最速で走った、ことに他なりません。そしてこの人類史上最速というのは、他の人間と比べた時にという<相対的な価値判断>なのです。

つまり、成人男性が100mを平均10秒くらいで走る世界線で、ボルトが9.58秒で走っても、これほどの<社会的評価>は受けません。それは<社会的評価>が相対的であり、その基準ではボルトは大して早く無いためです。ボルトが出しているパフォーマンスは(絶対的には)同じであるにも関わらず。

もちろんこれは、パラレルワールドのウサイン・ボルトという過程の話です。我々の世界では吉岡里帆はめっちゃ可愛いし、ボルトはすごく速い。ななまがりはどの世界でも多分最強に面白い。

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ここまで読み進められたあなたは本当に凄い!令和において貴重なクソつまらない文章を読む忍耐力と集中力に長けた素晴らしい人材です!

人は社会性を確立することで文明や文化というものを発展させてきました。我々が元来持っていた強烈な帰属意識がそれを可能にしたと言えるかもしれません。それによって確立された社会の中では、それに沿った価値観を求めて行くことこそが社会性と言えるのかもしれません。そして(少なくとも資本主義社会では)その価値観を追い求めていく過程は競技化せざるを得ないのです。

そう、人生は競技化されるのです。世はまさに、大競技化時代!!!デデンッ!

人生はレースであります。この世に生を受けた以上、少なくとも日本(流石に日本人しか読んでないよなっ、なっ!)に生まれたその段階で僕たちはスタート地点に立たされるどころか、この死ぬまで終わらない出来レースのゆりかごに乗せられて、物心つく前にはスタートラインから出航させられているのであるます!

漢字ドリル、百ます計算、定期テスト、受験、TOEIC、資格勉強、就職活動、転職、キャリアアップ、、、その先は知らんけど

競技というのはpdcaで上達するようにできてます。誤解を恐れずに言うと、何も考えずにハムスターのようにやるだけで価値が付与されるのです。極端に優れた領域を除けば、「人間にできたことは他の人にもできる」と言うことが言えます。

それでは面白くない。

やればやるだけ上達するなら、結局はちっさい頃からクライミングやってるやつが勝つってことになってしまいます。クライミングは親ガチャですか?それとも2世が絶対に偉いのですか?

そして大小はあれど才能は存在することも(忸怩たる思いで)認めておかなければなりません。


じゃあ<社会的価値観>からの逃避したくなかったらどうすればいいのでしょうか。1番簡単なのは客観的勝負に大勝ちすることであります。

勝負をしたくなくなった時に、舞台から降りるのは簡単ですが、それではただの負け犬です。勝負をしたくなければ勝てばいい。それだけのことです。圧倒的に勝てば、勝負する権利はこちらにあり、したくなかったらしなければいいだけです。

でも一つ忘れてはいけないのは、勝ったやつが負けたやつより偉いということはないということです。もしそうなら、日本人クライマーで一番偉いのはトモアナラサキであり、トモアナラサキ以外のやつはクライミングしなくても良いことになってしまいます。だって俺にできることなんて全部彼に内包されているんだから。

ワンピース1話も読んだことないけど、ワンピースの世界に電気がないってことは知っている(写真はイメージですの拡大解釈)

と簡単に言っても、大勝ちするのはなかなかに骨が折れます。私は今でも大逆転を目論んでいますが、そんなことをしたくない人のためにここで私が提案するのが、<主観的価値>の最大化です。

それは誰かが決めてくれるわけでは無いので、自分で定義付けする必要があります。それが難しい。難しいし、面白い。やり込み要素たくさんではありませんか。

つまりボクは、周りの人がどんなタイムで走ろうが、ボルトが9.58秒で100mを走るそのことを評価しようと言っているのです。5.15dなんてもんは、間違えてチェコに生まれちゃったクライミング星人に任せておいて、ボクは5.11aでプルプルいってるボクのクライミングを大切にしようと言ってるのです。これこそがNEOクライミングだっ!!!

クライミング2.0 ってのもいいなぁ

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結論の前に誤解だけ避けたいので書きますが、客観的価値を全て否定したいわけではありません。僕はボルダリングが大好きで、グレードはとっても大切にしています。やっぱり三段が登れたら嬉しいし、四段はいつでも貪欲に狙っていきたい。五段は生涯目標です。

「客観的価値を追い求めること」という行為そのものに、主体的に価値を見出せばいいだけなのです。また、僕がグレードなどの価値観を大切にしているのは、それを築き上げた先人や文化そのものに対して大きなリスペクトがあるからです。

同時に、社会を全否定するつもりもありません。「人は人とのつながりがないと生きていけません」なんてのは、センチネル族以外全員が自明の理として心得ています。僕はこの社会がクソだという大前提を持って、利用できるところだけ利用してあとはお好きにどうぞって立場をとってるだけ。(クライミングするのにお金がいるから仕方なく働く、的な?)

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もうあなたは尊敬に値しますよ。それともそんなに暇なんですか?人生の時間をもっと大事にしましょう。どうです?頑張って読んでやったのに才能のない書き手に罵倒される気分は?

人生という競技の中で、<客観的価値観>の束縛からの解放というのが、ある種の反社会的行為になるのだとしたら、その社会性への抗いという営み(ここではもちろん登山そのもの)の中にもう一度<社会的な価値観>を逆輸入することへの心のざらつき、これが、SNSを使ってないクライマーがかっこいいだとか、グレードよりスタイルを追い求めている方がかっこいいという感情の正体です。僕から言わせれば、一体なんのためにクライミングしてるのって感じ。

弱冠22歳にして不惑(相場は40歳)を貫こうと必死になっている時に、SNSのいいね数なんていうあまりに社会に依存した評価を持ち出されてもそりゃねぇぜお兄さん。畑が違うんダァ。

と言うことです。これホントに結論アルネ。

勿論こんな文章を書いている時点で私も社会的通念の奴隷といえますし、なんならアホみたいに変なことばっかり考えて夜も眠れなくなるほどなので、その突先でラッセルしているようなもんです。でも僕は自分の心のざらつきみたいなものに正直であり続けたいので、不眠になろうが生活がままならなくなろうが思想が止まることは無いでしょう。勿論考え方はどんどん変わっていくと思いますが、これが現時点での僕の最新の状態です。

おおよそクライマーというのはある種の反社会性を潜在させているわけで、社会に帰属している人がそれからの逃避として使う場合もあれば、社会性を身につける前に染まってしまって自己防衛本能から反社会的振る舞いをせざるを得なかった哀れなDirt-Bagも多いかもしれません(大学山岳部出身者に多い)。でもそんなところからしか生まれない変わった思想や文化というのにも、価値が生まれるかもしれませんから、正直になっていこうではありませんか。大勢に抗い続けて誰にも看取られずに死んでいく儚いものだとしても、、

「Be Dirt-Bag!」我が写真人生有数の一枚であります。彼も今では一児のパパ。

あー。俺もSNSでちやほやされてぇなぁ。

この吹き出しでメタなこと言うのハマってもうた。

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