生活のうた

*死についての直接的な表現が多く出てきます。苦手な方は注意してください。

部屋が汚い人は精神状態が悪いっていうけど、衛生的に問題があるゴミ(特に生ゴミ)を放置していない限り — ようは散らかっているだけの部屋、になんの問題があるっていうんだろう。

別に毎回決まったところに物を返さなくても人は生きていける。どうせまた使うんだし。

毎日同じように決まった形の綺麗な部屋がないと生きていけないって人の方が、僕からしたらよっぽどどうかしている。

こうして部屋を片付けない自分への言い訳をツラツラと考えながら、僕は物置を兼ねたベッドに放り出されたラップトップと脱いだパーカーをどかして寝転がる。

何か手に当たったなと思ったらさっきベッドに座って研いだばかりのノミックだった。

そこには生活しかない。

生活をうたえ

イヤホンや、街のラジオから流れてくる音楽は、ちっとも生活を歌わない。

意味のない単語の羅列は何個重ねても意味を持たないし、つい目を奪われる可愛いアイドルは偶像でしかないし、鯨は決して空を飛ばないし、ましてや運命の相手との大恋愛なんか存在しない。

現実が貧しくなるほど、希望を持てなくなるほど、人は生活を無視する。おとぎ話は必要ない。夢の国にいって良いのは、そこに行きたくなるほど現実を生きたものだけだ。お前にはその資格がない。

ちょっと違う

現実が貧しくても、どんなに閉塞や絶望があっても、そこに主体的な感情があれば、生活は存在する

主体的というのは、必ずしもポジティブという意味では無い。

怒りや、叫びは本質的に主体的であり、物質が伴うかは関与しない。

ブルーススプリングスティーンが歌った誰も知らないアメリカの片田舎(今年アメリカを2/3ほどドライブで縦断したが、吐きそうになるぐらいでかい!)の路上は、金も希望もなければ、圧倒的な閉塞感と、澱んだ絶望が存在している。

でもそこには確かに人が住んでいて、確かに生活の匂いがする。

文化は1人の偉大な英傑によってではなく、幾千万の無名の「生活戦士」によって形成される。

———*———

資本主義国家に生まれた以上、格差は否定できない。

地球が住みにくくなったからってそう簡単に火星には行けないし、行きたくもない。

生活をうたえ

僕は山登りのような遊びをするためにお金を稼ぐ。

あるひとは自分より大切な存在を守るため。

またある人は自分自身を生かすため。

そしてまたある人は自分自身を死に追いやるように働くのかもしれない。

そこには生活しかない。

僕は数ドルの食費を削ってまで山に登る。

職場のクソまずい飯も食うし、キッチンの余り物もたくさん持って帰るし、教会に行ってコジキのように食材を貰う。

でも800ドルのスキーのビンディングはなんの躊躇いもなく買う。

頭がおかしく見えるけどこれが僕の生活だし、至って普通のことだと思っている

そうやって働いていたら、毎日毎日大量の飯が目の前で廃棄されていく。

誰かの助けがないと移動もできなければ飯も食えない老人が、僕が提供したご飯を9割残して去っていく。

水道の蛇口に水垢が残ってても人は生きていける。

それが気になってせっせと拭く人にとってはそれはもちろん生活だし、体力的にキツくなってきたけどどうしても嫌だから誰かにお願いするのも生活だろう。

でも僕はこの仕事で誰かの生活を肩代わりしている感じははっきりいってそんなにしない。

そこに生命の匂いもなければ意思もないし、生活が全くない灰色で嫌な匂いの異世界だ。

でも僕は社会主義者じゃないから格差は否定しないし、金持ち老人は心の底から偉い人間だと思っている。

今日はいつものように仕事をしていた。

朝イチで入った老女性の部屋で、振り返った時にベッドにその女性が寝ているのをみて少しギョッとした。

挨拶をしても少し顔が動くくらいで返事がなかったので、淡々と部屋の掃除をしていると、看護師が入ってきて薬を飲ませていた。

げんきになるといいなとおもった

その数時間後にそのおばあちゃんは死んだ

その階の廊下で看護師の1人が泣いていて、あんまり見ないくらいのスタッフがバタバタしていてなんだろうと思ったら、少し経って判明した。

流石に全くショックを受けなかったといったら嘘になるけど、その時僕はそこで働いている中で一番生活を感じた。

今日を忘れなかったら良いなと思った。

それは僕の生活だから。

ありがとうおばあちゃん

彼女の何十年の人生の、最後の数時間で初めて会っただけの、彼女は全く知る由もないただの外人だけど、彼女は私の生活と一部になった。

人の死を文章で扱いたくない。

それほどまでに言葉も死もパワーを持っている。

死んでしまったら言葉を使えないから、それに対して力を持ったもので表現することがなんか納得いかなかった

去年、僕の本当に親しかったパートナーが剱岳で死んだ後、何度そのことについて書こうとしたかしれない。

1年経った時にも書いたけど、どこにも発表していなかった。

こんないいヤツがいたって事が、みんなから忘れ去られるのは心底辛かった

でもその度に、テスト前に電車で勉強しながら何時間もかけて行った通夜で見た、事故の甚大さから考えると奇跡のように綺麗に残った顔を思い出した。

あれほど楽しそうに山の話ばっかりしていた彼は、当たり前だけどもう何も話さなかった。

死について書くのが嫌なのは、死に言及した自分の文章は自分の死後も残る可能性があるからというのもある。

人間が概念でしかないと考えたら、死=概念の消滅以降は言葉が実態となり得ない。

本当に恐ろしいパワーだ。

元来、言葉や文学は、弱きものの武器であり、王政などで権力が今よりもっと一極集中していた時に、それを分散させる働きがあったという意見を聞いてすごく納得した。

洞窟の壁画とかも同じなのかもしれないけど。

僕は死ぬのが怖い

ただでさえアホみたいに短い寿命の中で、行きたい場所も、やりたいことも無限に思えるかのようにあるのに、それをオチオチ短くするなんて真っ平だ。

誰かはやりたいことやって死ぬのは本望というかもしれないけどとんでもない。最低だ。

少なくとも僕の中で、僕がやってる遊びに命をかける価値は微塵もないと思っている。

山で死んで、その後に何か思うことができたら、多分してもしょうがない後悔をするだろう。

でも僕は生活を辞めない。

僕はこの瞬間、この世界に生きていて、僕が洞窟の囚人でない限り(『洞窟の比喩』より)、僕が網膜を通して見るこの世界での生活がある。

僕は僕でしかない。

僕が生活した結果の最後には死があって、もしかしたら想定してるよりも早く来るかもしれない。

死は生活の最後にしてとても大きな結果の一つであってしかるべきであり、僕が僕を生きることをやめない限りそれは徳である。

そうやって、神への信仰を否定したニーチェのような気分に浸って僕はまた明日を生きる。

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